歴史

創建は古く千年ほどの歴史を持つ黄檗宗のお寺

 正明寺は、日野市街北方の丘陵地にあり、創建は古く千年ほどの歴史を持つ黄檗宗のお寺です。
 正明寺は聖徳太子の創建と伝えられており、その昔比叡山延暦寺系の地方大寺として栄えていましたが戦国時代の戦火を受けて消失しました。
 江戸時代に入り再興された時は、永源寺の高僧一絲文守大和尚の尽力によって後水尾上皇の勅建寺となり、黄檗禅の中本山としての寺格を備え、数多くの名僧をこのお寺から輩出しました。このお寺の本堂は、後水尾上皇から京都御所の清涼殿を下賜され移築されたもので、檜皮葺の屋根の流れは、実に美しく、随所に桃山建築の枠を凝らした跡が見られる建築の第一級品で、国指定の重要文化財に指定されています。
 ご本尊の千手観音立像及び脇侍の毘沙門天と不動明王は鎌倉時代の逸品で、共に国指定の重要文化財に指定されており、また禅堂の主尊である金剛界の大日如来像も本尊と同時期である鎌倉時代の名品であり、県の文化財に指定されています。
 戦国時代の戦火により焼きつくされ、戦国時代以前のことを探る史料はほとんど残されていませんが、他のお寺や神社の記録により日野谷の中心となる寺院であったことが知られています。

正明寺再興の縁起

さざ波の近江の国は、満々たる太湖を擁し、古来より東西交通の要所で、早くから仏教隆盛の地であった。聖徳太子の御旨により、多くの寺院僧房が設けられたと伝えられている。
 天智天皇の行幸でしられる蒲生野の、蒲生郡檜物里近くには、我が国最古の大石塔を有する石塔寺などがある。中世以降の争乱の為に、多くの寺が荒廃せられたにも関わらず、古佛像を奉安し、古建築を今に伝えている寺院が、今も猶多く残されている。この地が、早くから佛縁濃やかなるところであったことが、如実に現れているのである。
 今を去ること千三百有余年前、この檜物里、日野の松尾にある 正明寺は、日本仏教の開祖として仰ぎ奉る聖徳太子がご創建になった寺である
 比叡山延暦寺の地方大寺として天台宗に属し、日野町大字松尾山一円の地に九十三の支院があり、僧坊三百有余名が在住して、実に法雲の隆盛を見ることができる。
 平安・鎌倉と、この名だたる大社霊刹を集めた近江も、南北朝あたりから室町時代へかけて、戦国の動乱の渦中に巻き込まれ、戦の場となるのである。永禄十一年織田信長が足利幕府最後の主たるべき義昭を奉じて破竹の勢でこの国に攻め入りその省令を聴かざる物に対しては社寺と士族庶民との区別を問わず忽ち之をおう撃して余すなく、その征戦沿道には一宇一屋を余さずこれを焼き荒涼の野に化せしめたと伝えている。
 正明寺も同じく信長の兵火に会してその堂宇を焼かれ、亦その寺領を没収せられ、九十三の支院は華蔵の一院を残して悉く散乱したと云われている。
 春秋絡繹の賽客を迎え、朝夕梵唄の聲を絶やさなかったこの霊刹は、期して荒廃の後数十年の間、世に忘れられ、あたらその遺址を心なき鄙人の踏むに任せていた有様であった。
 松尾に居住した頓宮宗右衛門という信仰の篤い徳望者ありて、その人の父は元正明寺の僧であった。戦の火の手で燃える前に、本尊十一面千手観世音菩薩、脇侍の不動明王、毘沙門天の三尊を持ち出して守護し、草堂に安置されて、日常の動経に余念なく営み続けられた。
 父は、宗右衛門に告げ給うて曰く「吾、在世中にはこの霊験に添うべき堂宇を建立することは不可能である。汝、後世に於いて尊き身分のある方にすがり再興を念願せよ」と、深く宗右衛門の身心に徹し通して、父は遂に永眠した。
 それより幾十年を経た、寛永二十年の秋八月、高野村永源寺へ高徳一絲和尚が住山せられしことを聞いた頓宮宗右衛門は、
天下に於いては此の師にすがる外なしと、本尊観音菩薩に誓いをたてた。宗右衛門は、永源寺に上り、方丈に面会を許され、正明寺再興の念願を親しく物語りされて、援助を求められたのである。
 頓宮宗右衛門と一絲和尚との不可思議なご縁から、正明寺は再び無上の光彩をその上に注がれ、今に至って益々昌に法燈の輝きを示すようになったのである。永源寺一絲文守のただならぬ擁護によって再興の歓びえたことを云うのである。この機縁を結ぶに至った一絲和尚については、先づ以て一通りその略傳から述べなければならぬ。和尚の諱は文守字は一絲と号し、慶長十三年二月、岩倉具堯を父として生まれ、八才にして宮中に奉仕し、相国寺にて学ぶ。凡人にあらず、佛祖の化身とも云うべきなり。
 ひたすら修道に精進した一絲は、永源寺開祖寂室を思慕して、遂に寛永二十年八月三六歳にして、永源寺に入山したのである。
この間に、永源寺より西南三里、この日野の里へも一絲の足歩は運ばれるようになった。
 この正明寺再興の事情を最も明らかに示す物として正明寺に所蔵せられている和尚の書簡三通一巻がある。何れも和尚の弟子に当たる後水尾院の皇女文智公主の侍女義峰尼に宛てられたものである。最初の書簡では、松尾の観音のこと、後水尾上皇に奏上せられたところ、霊仏ならば、京・田舎の別なく御再興の思召しがあることを拝承した喜びを述べ。
 観音堂の沿革を叙し、頓宮宗右衛門と云うもの、父の代迄正明寺の寺僧であったのが、還俗して寺を在家とし、山林を自由にしたので災難に会ひ、即座に、一念発起して十年前から本堂再興の大願を起こしたと云う。
去年の冬より我が方をたよって、周旋(なかだち)を依頼したことの事情に及び、転じて近江に四十八箇寺ある聖徳太子御願の勅願所と伝えている。
 松尾の観音は、利生あらたかにて近年日野町人はじめ信仰のもの多くなったと述べ、再興の機運に会したよろこびをのべている。
次の書簡では後水尾上皇の御旨として、観音堂の大破せるものを再興の御願いあることから、松尾観音の由緒に及び、右堂宇六七年前に炎上して以来、仮堂は建立せられたが、秘仏として却々開帳にも及ばざる事情を述べ、今春より後、堂宇再建の計画があり、内裏へも御寄進の願出を受けたと云い、發願人頓宮宗右衛門度々霊夢を蒙りたること、並びに同人より内裏の御援助を乞へる趣をのべている。
 三通目は、弥(いよいよ)、後水尾上皇の御一力にて再興の叡慮あるよしの欣びを述べ、銀子二百枚願主頓宮宗右衛門に交付せられたことと、不思議の感通浅からざる奇端に及び、御下賜銀多きため、五間に六間の観音堂を建立せんと云い、更に木材をも寄進の思召ある由を聞き、千萬年の末迄の名誉なれば、右拝受に及ばんと云い、之には日野より一絲とあって、親しく同寺にあって御下賜銀を宝前に備えて大非號を諷誦し(経文を声を上げて唱える)上皇の萬安を祈念したと伝えている。
 近世の英主と仰がれ給うた後水尾上皇は、深く仏道を重じ給ひ、特に禅宗に御信仰深く、寛永八年、一絲和尚が、始めて召されて法要を奏し奉って以来、後水尾上皇の和尚に対するご帰依は殊の外、篤くものがあったのである。
 斯の如くして法輪山正明寺は、壮麗な粧を新たに、再びここに、聖徳太子御願の宿志を、衆生の前に現ずることになったのである。
このことは、享保十四年十一月、正明寺五代の住職寂門によって記された寺記に、次の如く書いている。
「本堂観世音菩薩、不動明王、毘沙門天の三尊及び大日如来の像、厳然として、一艸坊の中に安置す。
本邑、頓宮氏香火を奏ずること多年、尊像を今の地に移す。護法の社を六社権現と號す。
永源一絲和尚に請うて、預め約して退休の地となす。時に寛永の末に当たる。
因て一絲和尚、入内上皇に面するので、当山千手大士異験の事を語る。これより先、上皇会て霊夢を感ず。
実に符合の如し。これにより正保元年甲庚六月十八日勅して代参を遣し、白金二百枚を献ず。
頓宮氏、岩倉大納言、芝山中納言、兩傳奏の閣下によって謝を致す。
次の年兩傳奏に詔りして清涼殿の古財を賜ふ、大悲殿と為せり。頓宮氏旨を承けて之を造営す。
斯の如くして頓宮氏の大願は、限りなき恩寵によって成立ったのであったが、一絲和尚はその落成を見るに至らずして惜しくも易簀せられたのである。
 頓宮宗右衛門・一絲和尚の時代から四百年、歴代の山主・檀徒の威徳により、昭和五十二年から三十三年ぶりに、秘仏である千手観音立像のご開帳を迎えさせていただくのである。
 
 (28代住職 道元和尚編集 正明寺小志 及び29代住職 禅梁和尚編集 正明寺しるべより)